「先端」ということ
結局、今日は仕事をするつもりでしなかった。というか、やらなくちゃな、何かしなくちゃならん、終わってないし、なんて思いながら、実際はそんなにやることなかったわけだ。中途半端な気分で寝転がって本を読んでいた。
以前は電車の中が読書タイムだったんだけど、最近は電車に毎日乗るわけではないので、本を読む機会が見つけられない。習慣で、うちではあまりじっくり本を読まなくなっていた。だいたい電車の中か、夢中になったときは、そのまま電車を降りても目的地へ行かないで、喫茶店に入って飽きるまで読む・・・・というパターンだったので。
で、なんの本を読んでいたかというと、「先端芸術宣言」っていうすごいタイトルの本(笑)。
M氏が母校の芸大の取手キャンパス?で、インフォメーションアーキテクトとして(だと思うけど)特別講義をしにいったときに、大学にもらったんだという。まあ、これでもよんで、勉強しろよ、と。で、かれが「"先端芸術"といえば君だろ(笑)」と冗談交じりに貸してくれた。
取手ってどんなことやってるんだろ、と軽い気持ちで読み始めたら、わらった。そのまんまでした。
そのままCM processのページに載せてもいいよ。っていうか、高校生の時これよんでたら、迷わず芸大受験してたよ・・・。しないしない(笑)。でも、そのころ先端芸術は取手になかったね。っていうか、俺たちに授業やらせろ(笑)まあ俺は偉いひとじゃないから、いくら「先端芸術」とはいえ、権威のない方お断りなんでしょうが・・・・
以前から川俣正氏にはシンパシーを感じていた。彼の"ものからことへ"と題された文章の頭に付されたマリーナ・アブラモヴィッチの言葉「二十一世紀は芸術作品がなくなるかもしれない。なぜなら人々が高次の意識と感情を持ち、作品無し(without object)でコミュニケーションを取り始めるからである」
この意見自体はいささか楽天的ではあるけれど。
そして川俣氏の言葉を引用すると「作品が生成されるプロセス、そのためのオーガナイズを含む制作行為そのものの総称をプロジェクトと称する。これは作品というものを固定したカテゴリーの中で考えるのではなく、つねに可変的な運動態として捉えることである。」
つまり、CM processでやった考え方のシフトの仕方が、この本(つまり東京芸大先端芸術表現科)では語られているわけだ。ということは、もうすでに権威に取り込まれてしまっているものの考えかた、実践、なわけで、俺みたいな「ノン〜」でアイデンティファイする人は次の手をそろそろ考えろ、ということか?(笑)でもまあCM processはそれだけじゃないからね。奥の手がある。
九時からテレビで「白線流し」というドラマをついみてしまう。どうも続き物でずいぶん前からやっていたみたい。フラッシュバックのシーンでわかる。役者がみんな若い。で、不覚にも泣きまくり。歳をとると涙もろくなる。
ケージは、実験的であるということは、物事が予知できないような所に立ち会うことだといっていたような気がする。人生は実験的だ。実験と物語の関係。人生を休む方法は、人生について考えることだ。いまはとても物語を必要としているのかもしれない。
すごくつかれてるから。
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