Fri, 02 Apr 2004

開放と消滅
やっと帰宅。事務所に三泊。今回のサイト構築は、ちょっと手に負えなかった。それほど複雑なサイトではない。今まで、もっとやっかいなものを手がけてきた。だけど・・・なんだろう、スタート時点で構造設計にあまり口出しできなかったため、トータルなサイトイメージをつかめなかった。構造を見極める前に部分から手がけたため、最後まで全体を見渡すことが出来なかった。反省・・・・。じっくり構造設計とイメージ作りに時間をかければ、あとはほぼ自動的にプログラムは進んでいく、事が多い。ルールは簡単だ。複雑に見える相互にリゾーム状にひもづけられた構造も、実は一つ一つはなんでもない簡単なルールでつながりあってかさなりあっているだけな事がわかる。すべての部分はすべての部分とつながり合う。桶屋が儲かる理論と同じ。だからつねに漠然と全体を眺めていなければ、部分は成り立たない。
濱中さんから教えてもらった、ネットの記事、二件。濱中さんも、思うところあったらしい。伊東豊夫氏の生成プロセスの話、と青木淳氏の建築はそもそも現象である、という話。二人のレクチャーのレポートだけど、今をときめく人たちがこういう事をかんがえていることとで勇気が出てくる。
CMpの動き生成ツールのアイデアは、分断された振り、ポーズ、フォームを時間的につなげていく事でダンスを構築することだけではなく、ものや身体それ自体を動きと未分化なままにみること、流れるからだの動きが身体であるという観点から動き続ける身体を動機づけるために考えたものだ。そこで重要なのはその動機や目的、それを生み出す動き生成ツールではなく、それらによって生み出される動き、身体性そのもの。解釈され得るパターンを持たない延々と動き続ける全身体。それは、「なんのメッセージも持たない純粋なイメージ」になるのではないか、ということだった。身体は、実際の物や想像物との関係性の間で動き続けるからだ、現象である。
パフォーマンス、その製作プロセスを含めてのパフォーマンス作品を建築と捉えれば、CMpで考えてきたことは、伊東氏の考える建築とにている。アルゴリズムに基づいて生成される非線形の振り、動きは、身体同士がさらに非線形にコミュニケーションのネットワークを生成し続けながら、その形態をはじめから想定することは出来ないが、そうなるべくしてなった、しかし、数多くの可能性の中から偶然選び取られた一回性の出来事を形作っていく。しかも製作プロセスにおいても、特定のディレクターは存在せず多様な価値が簡単なルール、アルゴリズムに従って、その都度ルールを更新しながらプロジェクトが進行していく。このむちゃくちゃな作品づくりのアイデアは、もともと、自分の中にある、「何か形のある物を作ることで自分と世界は限定し閉じてしまうのではないか。」というおそれから来る、「何もしたくない」という気持ちから生まれた物だとおもう。
生きることを選んだ上で何もしないことはあり得ないから、何もしないこと、何も意味しないことを、ただひたすらすることで、人とつながっていける職業は、俺の知識と想像の範囲では、アーティストしかない。しっかりといきながらにして開放し消滅していくことの出来る職業(笑)しかし、俺はまだうまくやっていないけど。
ということを考えてきて早十年。あまり成果らしい成果は出ていない。成果らしい成果が出ないのが、開放と消滅の芸術(笑)
アヌーシャからメール。ユトレヒトのスプリングダンスフェスティバルに参加するために今日出発するとのこと。インドで製作に協力したインスタレーションInside Inが展示される。うまくいくといいけど。プログラムが微妙にいい加減なので、最終的な微調整と現場への対応がキーになる。アヌーシャ、大丈夫か・・・・。


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