まずは、かみさんの出版記念パーティーへ来てくださった方々、本当にありがとうございました。思っていたよりも大勢の皆様に来ていただいてびっくりしました。案の定ばたばたな状況で、直接ごあいさつできなかった方もいらっしゃったかと思います。すいません。懲りずにまたおつきあいいただければと思います。詩集も気に入ってくれたらうれしいです。
ということで、一大イベントが終わってひと安心。家の中はいただいた花束の山からのむせかえるような香りで充満している。
で、猫のロイが何にいらついているのか、最近小便を洗濯物の山にひっかけまくったり玄関の靴にひっかけまくったりという暴挙にでているので、花の香りと、猫の小便の香り。
ダンスアンドメディアのワークショップも終わって、一段落したので、[C-E]に取りかかる・・・つもりの三連休は、ほんとにちょっと取りかかった、程度にしか手をつけられていないが、頑張りますから・・・。
ワークショップの方は、結構おもしろかったんではないかと思う。今回はやって良かった。いろいろ気がつくことが多かったし、言葉も多かった。いつも海外なんかでやると、ベーシックなアイデアを伝えるのに精一杯で、しゃべりながらふと新しい発想が生まれることが少ないんだけど、今回は密かにいろいろ思いつきましたよ。
パーティーの金曜日があけて、土曜日の夜はルドの家へ。奥さんのヴァレリーと子供たちがパリへ引っ越してしまうので、ちょっとしたお別れパーティー、なのかな。寂しくなるね。いつもあえると思っていた人達がなかなかあえなくなるのは、複雑な感じがするもんだ。あえるときにたくさん会っておけば良かった・・・と思ったりする。
外は暑いし、じめじめするし、ずっと家の中にいたりするんだけど、なんだか猛烈な眠気がして、たっていられない。今日、月曜日は雨だし外はそれほど暑くないからまだいいのだけれど、昨日は自分が痴呆症になったのかと思うくらいにぼーっとしていた。
やっとボブディランのNo Direction Homeを全部見る。すばらしい。
裏切り者呼ばわりされたコンサートの映像も始めて見た。あの当時そう叫んだ人達は、今どう感じているのか?
それはディランが正しいとか間違っていたとかそんなこととは関係のないことだ。そんなことはディランも行ってるように、時代は変わるし、どの考え方だって、いつかは善で、いつかは悪にもなる。
自分もあの場にいたらそう叫んでいる一群の中にいたかも知れない、そうでないかも知れない。ずっとそのことを考えていた。
これは子供の頃からとらわれている思考の傾向だ。
自分はある一つの考え方の中にとらわれているが外部からそれを冷静に判断することはできない。自分には特にその能力がないようにおもい、いつもあとになって後悔する。そのとき、なぜそんな考え方のもとに熱狂してしまったのか・・・。もし学生運動の時に生きていたら自分は体制側についていやしなかっただろうか?戦争が起こったら万歳をしながらお国のためになんて叫んではいないだろうか?極端に聞こえるようだけれど、そういうことだと思う。今まで人生のいくつかのシーンでそういう体験をしてきた。
だから不安で仕方がない。
でも、とにかく、体制側でも反体制側でもどっちでもいいんだけど、外部にでることは不可能かも知れないが、外部にでようとする意識をキープし行動することは不可能ではないと思う。
ディランは、そうして生きている気がする。
それとは関係ないかも知れないけれど、プロテストソングを歌って若者の代弁者といわれていたディランが、そうでない意味不明な歌を爆音で演奏するようになったのは、ディランがそれを意識したのではないかも知れないけれど、同じことをただやり方を変えただけなんじゃないか。公民権運動の集会に出向き意味を歌詞にこめてその歌の意味で彼らにものを考えさせて何かを変える方法から、ディラン自身がディランという人物を「この人を見よ!」という姿勢で、ブーイングの雨あられをうけながらもやりたいことをやり、既成概念にとらわれた人達や人が自分の思い通りに動かなければ敵視するような人達をわらいとばし、言ってもらいたいことを言わせようとするインタビュアーにくってかかりながらメディアにこびずに自分の態度を貫くという、一貫してクールに外部に立とうとする生き様を見せる方法に、やり方が変わったともいえるかもしれない。でも、別に何かを変えようと思っていたわけじゃなくて。ただそういう人だったから、みんなが「ディランやばい」というんだろう。


ディランについて、同感でグワシ!
よんだ?
新作がでるらしいよ。
またラノアとやってくれないかな・・・。