現在、十月二十八日土曜日午後八時六分。このあと九時半からボローニャ公演の二回目のステージが始まろうとしています。
これを書いているのは、劇場の中、舞台脇に設置したブースの中。
到着したのはいつだったっけ?二十五日の夜。ゲストハウスに泊まる予定だったのだけれど、なにやら問題があったらしく、中心地からだいぶ離れたアマデウスホテルというところにつっこまれる。
劇場はそこから歩いて十分弱なので、ここはボローニャといっても、東京で言えば北千住あたりか。川こえるから。
テアトロデビータという劇場のスタッフはまあいい奴らなんだけれど、ちょっとちんたらしていてしかも三人?四人?しかいない。セッティングにずいぶん苦労する。
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ここまできのうの本番前に書いて、書く気が失せた。
いまは十月二十九日日曜日の朝十時十分。サマータイムが昨日までで終わったので、東京都の時差は八時間になる。
昨日の公演はちょっと集中力を欠いたのか、いくつか細かいところでオペレーションを失敗した。まあ、あまり気になるようなところではないけれど、細かいところで作品全体のノリは変わってくる。
そもそもオペレーションの問題よりも作品内容の改訂が必要だとは思うけれど。
劇場の箱はいいんだが、設備がしっかりしていないので、ここでの公演はちょっと残念だった。プロジェクターの光量が弱すぎてカメラや照明との調整に手間取り、手間取っただけではなく、結果、思い通りの物にならなかったのが悔やまれる。この作品のほとんどはプロジェクションの出来にかかっていると言ってもいいので、本来ならなき真似してだだをこねてももっといい物を持ってこさせる位のことをしないといけないんだろう。
昨日の昼間はボローニャの街へ出て息抜きにぶらぶらする。町中のアーケードがとってもきれいで、小さいけれど雰囲気のいい街。有名な(といってもここに来るまで知らなかったが)ピサの斜塔針に斜めに傾いた塔がある。見渡すと、その塔だけでなく、傾いた建物がいっぱい。街全体がグニャグニャになっている。アーケードの中に無限ループする有名なエッシャーの絵のようなところだ。
昨日の昼飯は中心地付近にあるパサージュのなかの、悪そうなオーナーとむきむきのハーヴェイカイテルの様なウェイターのいる店でピザを食った。
ホテルと劇場の間にレストランがある。昼と夜の飯はそこで食わなければならない。なぜなら、飯代が支給されているわけではなく、そのレストランで食えば飯代を払わなくてもいいというシステムだからだ。こんな僻地にあるのに、ずいぶん繁盛している店で、夜はキーボードのオヤジとイザベラという歌手が下手な七十年代ヒットパレードみたいなのを演奏して、化粧の濃いおばちゃんや、カラージーンズはいてあり得ないくらいに襟の立ったシャツを着たようないわゆるちょいワルオヤジなんかが連れのケツをさわりながら踊っていたりする。
全体にしょっぱいが味は悪くない。ファーストにボロネーゼでセカンドにステーキなんて食って毎日腹一杯である。日本人の感覚だったら、一皿目のパスタで、もう十分だ。イタリア人が二皿食う習慣を一皿にしたら、ずいぶん何かが変わるのではないかと思う。おばちゃんのがたいのサイズだけでなく。
モンペリエとオランダのどこかからオファーがあったらしい。テクニカルライダーを送るように浜中さんが準備をしている。レビューなんぞ、一つも見たことないのだが、評判がいいのだろうか?それとも、他にないのだろうか?インド関連のイベントがヨーロッパで流行っているらしいが、ちょうどいいタイミングだったのだろうか。
公演する機会をもらえるのは作品にとってはうれしいことだけれど、そんなにツアーが多くては、こっちの生活が持たない。
今回は長いツアーになるにもかかわらず、日本からは三冊しか本を持ってきていない。そのうち一冊は行きのスカイライナーとオーストリア航空機内で読んでしまった。細野晴臣のアンビエントドライバー。円盤見たり宇宙人見たり忙しい人だ。この時代の人に見えない物が見えたりオカルトチックな人が多いのは、何か決定的な秘密があるのか?細野晴臣はとてもいい音楽を作る人であるけれど、ずいぶんおれとは違う人なんだなあ、と感じる。御大と違う、なんて言って、しかも箸にも棒にもかからないような、たかが何百人という数の人間にしか聴かれていなくて、メディアに全く流通していない音楽を作っている人間がそんなことを言えば、どう考えたって俺の感性の方が不利だけれど・・・。
たしかにわかるわかる、とうなずくところは多い。でも、それを導き出す道筋や根っこが違う。
この本の装丁はとても良い。誰かと思ったら「生意気」だった。
もう一冊は、成田のツタヤでかった石田衣良という作家のアキハバラ@deepとかいうやつ。なんか小説でもと思い棚をなめ回していたら乗り遅れそうになっていることに気がつきアキハバラという五文字で決めた。今読んでる。
まるで映画化前提の小説。会議でプロットを決めて五〜六人のライターが分業で書いているような小説。児童文学のようだ。むかし「ずっこけ三人組」シリーズなんてのがあって子供の頃読んだけれど、そんな感じだ。
小説的想像力というのは全く感じられないし、作家の頭の中にあるのは映画的な文法なのだろう。描写に映画的手法を取り入れる、といったような実験ではなく、作家の頭の中のイメージは映画というビジュアルイメージとしてあるのかも知れない。そもそも映画的想像力なのだ。こういう小説家の想像力は映画化されやすい。だから映画の文法や紋切り型のビジュアルコミュニケーションで育った人間以外にとってはプロット以外の情報を読み取るのは難しいだろう。映画以上の物も以下の物でもない。
もう一冊は高橋悠治の七十年代の評論集。あんまりにもわけわかんないので途中で投げ出してあった物。なんか重要なことが書いてあるような気がしていたので他に読む物がなくて困った時にしか読まんだろうとおもって持ってきた。浜中さんが先にアキハバラ@deepを読み終わるのを待つ間、ぱらぱらめくっていたのだけど、相変わらず、難しくて頭に入ってこない。どうも、そんなに重要なことが書いてあるわけでもなさそうで、ありそうな・・・・。これを書いたのは三十代前半か・・・。落ち込むなあ・・・。
自分を棚に上げて適当なこと言ってごめんなさい。
自分のことを棚に上げて、人のことを言うのは簡単だ。いや、簡単でもないな、きちんとした批評をするのは難しい。印象であげつらうのは簡単だけど、理論的に批評するのは非常に難しい。
いやあ、おもしろかったよ、とか、なんか感動しました、とか、もっとボーンとやっちゃった方がいいんじゃない?みたいなことを言われるのもありがたいけれど、ちゃんと批評されるようなことがあるんだろうか?俺らの作品。
ごもっともな論理でけちょんけちょんに言われるとそれはそれでへこむんだけどね・・・。まあ、なにくそー、じゃあ次はどうしようか・・・という気持ちにはなる。
今日と明日は、ワークショップらしい。でも、ダンスのワークショップなので、我々はなにもすることなし。観光するのも疲れるし。
作品の改訂でもするか・・・。あ、[c-e]の方もやらんといかんのだった。
わけわかんないボローニャ日記になったな。
続きはまた明日。