また久しぶりになってしまったので、一週間何やってたのか思い出せない。
昨日はバラタナティヤムなんかの民族舞踊とコンテンポラリーダンスの関係がどうのこうのという卒論を書くに当たってプルシャルタの映像を見せてくれないかという学生がやってくる。参考にならないような気が、すっごくするんだけど・・・・。
アクラムカーンやらジャイの踊りを観ていると、別にカタックとかバラタナティヤムとかカラリパヤットを「とりこんでいる」のではなくて、ただそういう身体の記憶というか、長年の訓練で染みついた癖みたいな物が振付や一つ一つの所作の中ににじみ出ているだけのような気がする。意識の中でも「踊りとはこういう物だ」と思っているような所がある。演歌歌手がユーミンのようなフラットな歌い方のポップスをうたうときにも、ついコブシを回すみたいな物か。もちろん、彼らはそれにとても意識的で、自在に使い分けることが出来るのだろうけど、手癖はあえて排除しない。
例えばブロードウェイミュージカルで、まあライオンキングみたいな物があるとする。(みたことないけどすげえんだろうな・・・)アフリカンダンスみたいな事をするようなシーンが(みたことないんであるかないかわからないが・・) あってみんな「アフリカっぽく」おどる。ベジャールだかなんだかが忠臣蔵かなんかをバレエに持ってきて(見たことないのでわからないが・・・)歌舞伎のミエを振付に採り入れたりする。ジャイらの作品や、どこかで見たおもしろかったアフリカのカンパニーの作品で起こっているのはそういうスーパーフィシャルな事とはちょっとちがう。八十年代だか九十年代によくあったいろんなスタイルのダンスを採り入れて文化のミックスがどうのこうの・・・みたいなポストモダンな方法と、にじみ出るコブシを意識的に使うのとはちょっとちがう。
民族、というかある文化特有の身体の記憶という物があるとしたら、それがどんどんフラット化、グローバル化しているような気がする。そういう中でコブシを回す身体っていうのは貴重だと思う。西洋的身体論への反動で日本のからだを探した暗黒舞踏があったあと、コンプレックスがなし崩しになくなって何でもありなコンテンポラリーダンスが自然になったのも、身体のフラット化があるからなんじゃないか。こないだパブロがいってた。俺はアルゼンチン人だけどタンゴのタの字もしらねえ、と。俺だって日本舞踊も、盆踊りさえも知らん。
インドやアフリカのダンサーの子達を見ると、やっぱり「盆踊り」がまだ染みついているし、その身体の記憶を誇りに思い楽しんでいるきがする。
アフリカやインドの身体はまだ混乱している。それがおもしろいし、これからどうなっていくのか、十年やちょっとで変わってしまうかもしれないから要注目だと思いますよ、ダンスが好きな人。
きょうは、頭が痛い。肩がこりすぎてよくない。


松尾さんの音楽にも、日本の祭囃子的なものが、
ばっつり流れていると思いますが、、、
韓国公演無事終わりました!
有難うございます。
早いうちにケーブル返しにいきます!
まつもと