今朝、といっても午前十一時、おきたら年末年始の休みが始まっていた。
考えると、何もすることがない。
すべきこまごましたこと、例えば大掃除や飯の準備、日用品の買い出しなどはあるのだが。
結局、この調子で、実は何もすることがない一年を、こまごまとしたことの処理を続けながら送ってきたんだろう。
週末。今までの人生でこれほど週末が待ち遠しいとおもった年はなかった。とくに、忙しすぎたわけでもないし、週末に楽しい予定が入りまくっていたわけではない。
よく思い出せないが、週末に助けられたことが多かったんだろう。
今日は週末のまま時間が止まっているようだ。
映画をいくつかみる。「ルワンダの涙」と「ホテルルワンダ」と「真珠の首飾りの少女」と「ベトナムから遠く離れて」と「愛の流刑地」。
ルワンダのジェノサイドについての二つの映画は連続で見た。気が遠くなる。ネットでもいろいろ探してみた。
普通、ブログっていうのは、これほどの衝撃に関して何かコメントを書くところで、どうでもいい日常をさらす所ではないと思うのだが、ノーコメント。
めディアなんとかに関わっている身としては、千の丘ラジオについて考えてみなければならない。これについては何度も考えた。考えて何か見せるのが道理。
なたで隣人同士、家族同士が殺し合うなんて事が、事実あったし、いつでもあり得る。と、若く幸せだった幼少時代には思わなかったかもしれないが、今は思う。
死んでるとわかっているゾンビの方がまだましだ。そいつは他者でもないし死者でもないから。ゲームのプログラムみたいなものだ。
圧倒的な断絶の暗闇、どこにでもある暗闇は、人と真剣につきあえば、毎日感じることであるけれど、それをこえて人をつなぐものはなんなんだろうか、そんなものあるんだろうか。つないでいると思っているなにかはあんなにもろい物なのか。
それは愛だよ、愛だよ、と思考停止のオウムのように繰り返しいって口論になりぶん殴られたことあったな、昔、荻原に(笑)
「真珠の首飾りの少女」はたいした話じゃないけど、絵が綺麗だった。でも彼女じゃないだろ、とはいえ、他に思い当たらない。タイミングが悪かったんだね。五年後にはスカーレットさんよりベターな人が出てくるかもしれないし。
「ベトナムから遠く離れて」に関してもあんまりコメントはないけど、以前はゴダールの用にベトナムから遠くはなれてベトナムを語る、というかベトナムの問題を自分の問題として語るというか、いろいろ苦労して策略練ったんだろうよくわからないがそういうコミットのしかたの方が理にかなっているような気がしていたんだけど、なんかいまの気分なのかもしれないが、「行ってみて生活して語れや。ベトナムの問題は、というかあらゆる問題は固有だから中から語らないなら、語るな。物語でもいい、直接語れ。時間がない」と、いってやりたくもなる。必ずしもそうではないことはよくわかっているつもりだけれど。お涙ちょうだいじゃない、持続する行為の瞬間は物語では語れないのはよくわかっている。しかし、もうこのやり方ではダメなんだよな。
マルケルはよく作った。ちゃんと方法的な矛盾や対立もひっくるめた上でちゃんと薬として効果のある映画だったとおもう。効果、というのは危険だけれど。千の丘ラジオは効果絶大だった。
愛の流刑地は・・・流刑地って・・・八年(笑)失楽園よりはいいと思いました。


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