猫の介護と、帳面とにらめっこ

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八月になった。ロイはもうすっかり自分で飲もうともとも食おうともしない。一日中ほぼ寝たきりである。しかし目はしっかりしているし、ふらふらは日々ひどくなるがたまに自力で立ってベランダの隅に向かったりだとかベッドの後ろへ隠れたりだとか押し入れの奥で寝たいだとかちゃんと意志を持って行動している。
ニュートリスタットというチューブに入った栄養剤とロイヤルカナンの流動食を小分けに無理矢理食わせている。それだけがロイの食べ物になってしまった。あのカリカリという音もぴちゃぴちゃという音ももうきくことはないのかと思うと、行き場を失ったような心持ちがする。
決して自分から流動食を飲もうとせず口角から垂れ流したままにして、ぴちゃぴちゃと舌なめずりさえもボイコットしたロイは、もう食べるのをやめてこのまま逝こうかと思ってるのだよ、というようにじっとこちらの目を見つめる。あまり猫は目を長くあわせたがらないものだが、元気だった頃に比べると長くじっと目を見るようになった。もう視力も落ちているからかもしれないが、何か言いたいことがあるようにもおもえる。言葉で伝えあえないのが悲しい。
衰弱して寝たきりになって朦朧としても、のたうち回るような激しい痛みのなかでも、だれかがそばにいてだれかに心底愛されているという感覚が最後まで少しでも感じられるのであれば、それは生きていくに十分の喜びと希望である。単純なことだけれど今さら悟った。

そんなこんなで介護の日々はつづいてもう八月も二日過ぎた。明日は人間ドックであるから、今夜は八時までに夕食をすませなければならない。何を食おうか。
今日はそれまでやるべき事をやる。やるやるといっていながらやっていないことをやる。なぜやっていないかといえば、気が重いのでつい後回しにしてしまうだけでなく、出来ないのである。たぶん能力的に。

今まで何度も忘れ何度も思い出してきたことであるが、俺は人より物を理解するのに時間がかかるたちの人間なのである。その代わり、理解するときは自分なりに満足できる程度までしっかり理解するところへ落ち着く。それが間違っていようが正しかろうが、とにかく、落ち着き、納得する。納得したあとの休みとビールは何物にも代え難い。ところが、それまでに道のりが非常にきつい。まるで進捗が見られない状態が何日も何週間も何ヶ月も続いたりする。でも、ちゃんと時間はかけなければいけない。なかなか集中できなくとも雑念が入ろうともただただぼーっと過ごそうとも、帳面とにらめっこする時間を確保すること。その時間は必要な時間なのであるから我慢するしかないだろう、と思うようにしている。
たまにそれを忘れ、ただただ自分が世界で一番間抜け(実際層なのかもしれないが)にかんじられて、周囲に八つ当たりする。
締め切りまで日がないときはなおさらつらい。九月のデリー公演は大丈夫なのか。
もっと効率の良い頭に生まれていれば良かったものだ。

iPhoneのイヤホンが買ってから二週間ほどで断線したので交換してもらった。ところが新しく届いたイヤホンにはボリュームコントロールが付いていなかった。たぶん1世代前のモデルなのだろう。まあ、仕方ないか・・・と思っていたら連絡があり、間違って送ってしまったので再度交換させてくれという。先方が間違ったのだからそれは当然だと思うが、多少すまない気持ちもする。

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このページは、matsuoが2009年8月 2日 10:01に書いたブログ記事です。

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